마을만들기

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마을만들기(마치즈쿠리)는 우토로마을의 토지 전매사건 이후 주민들과 지원자들이 함께 지혜를 모아 스스로의 대안을 만들고 이를 실현하고자 하는 운동이었습니다. 법적으로는 강제퇴거의 위기에 몰려있던 시기, 주민들은 현재 그대로의 삶을 유지할 수 없다면 차선책으로 문제해결을 제시하고자 헸습니다. 여기에는 지역 일본시민들로 구성된 우토로를 지키는 모임이 주민들과 함께 실태조사와 주민 집회부터 일본내 여론 형성, UN의 권고를 이끌어내는 국제적 호소까지 많은 활동을 벌였습니다. 그 과정을 우토로를 지키는 모임의 사이토 마사키님의 글로 살펴보고자 합니다.

ウトロ地区の概要と世帯調査

・日本各地の都市部に散在する在日朝鮮人集住地区は、すでに消滅したものも含めてそれぞれに歴史があるが、ウトロ集落の形成は1943年、戦時中の京都飛行場建設労働にかかわる朝鮮人飯場を起源としている。1944年の米軍が撮影した航空写真で確認すると、飯場建物の数は十数棟。それぞれが十数戸の部屋に区切られていた。ここに収容された人数は不明だが、1951年の地域新聞記事には60世帯とある。

 

・住民の職業は土木労働者。当時は「土工」「人夫」「土方」と呼ばれた。出身は慶尚道を中心に、もと農民(多くは小作)であった。男性単身者のほか家族持ちもいた。戦後は全員が失業者となり、「日雇い」「屑鉄拾い(廃品回収業)」「失業対策事業」で生き延びたが、生活は常に不安定だった。慶尚南道出身の姜景南オモニのように、朝鮮でも日本でも一度も学校に行ったことがない人も多かった。

 

・ウトロ地区は戦後も長年、日本の行政から全く見捨てられた地区であった。ウトロ土地転売事件の直後にウトロを守る会は発足したが、このとき初めて日本人市民運動家がウトロ地区内に入った。1988年に守る会の第1号ビラを私が作成した。「85世帯、380人の生活守れ」と書いた。この数字は当時の町内会の認識によったが、調査結果とほぼ一致していた。守る会は1世住民の聞き取り調査などを繰り返し行っている。

 

・ウトロ地区は宇治市の中にあるが、市役所職員が業務(ゴミ収集以外)でウトロ地区中に入ることはほとんどなかった。宇治市がウトロ地区の世帯調査をしたのは2008年、基礎データの必要に迫られた時だった。この時は71世帯、179人とされた。多人数世帯も徐々に減り、若年層の転出が続いた。少子高齢化が進み、現在は50世帯140人と推測される。

ウトロまちづくりに向けた取り組み

・まちづくりに向けた取り組みは、その時々の住民自身の現状及び将来への認識によって大きく左右された。ウトロ住民の土地に対する理解は、伝統的に周囲の日本人社会と異なっていた。朝鮮人飯場での共同生活を経験した住民はウトロの土地は全体が一つであり、歴史的に朝鮮民族の共通財産であるかのような感覚があった。土地売買は目の前の同胞の間だけで行われ、売買契約書も領収書も必要なかった。しかし、周囲の日本社会では近代以降、土地は商品となり、不動産登記制度も確立し、所有権が絶対であるという価値観が確立していた。

 

・1987年に土地転売事件が起きた。日産車体(株)から許昌九(平山)への土地売買、さらに西日本殖産への転売により、「朝鮮人が自由に利用できる共通財産の土地」という在日1世の感覚は否定され、一気に日本社会の現実の中に引き戻された。住民は「日産車体が土地を西日本殖産から買い戻して、このまま使わせてほしい。あるいは住民に安く売ってほしい」と訴えたが無駄だった。住民の多くは貧困であり、実際に土地を買う経済的能力はなかった。この当時の町内会長は「宇治市に相談に行っても、話も聞いてもらえない」と述べている。

 

・京都地方裁判所でウトロの土地明け渡し、住宅撤去を求める裁判が始まった。当初、住民側の弁護士は「土地の時効取得成立」を主張し、勝訴する可能性を信じた。しかし、住民には文章で記録を残すという生活習慣がなく、記憶の世界でその日その日を生きていた。裁判で、決定的な反証が相手側から法廷に出され、時効主張はすべて否定された。

 

・ウトロ地区の中では家屋の位置関係によって、占有している土地の潜在的価値が異なった。道路に接した外周の敷地は利用しやすく、一方、集落の奥の方は道路もなくモザイク状の占有状態であった。場所の違いは住民内部で微妙な意識の差を生み出す要因ともなった。住民の約2割が生活保護世帯であり、貧富の格差もあり、町内会として全体で土地購入のため、金銭をストックするということもなかった。

 

・敗訴の結果、裁判所による強制執行が目前に迫った。住民(中でも高齢者)がホームレスになる可能性が高まった。こうした事態を何としても避けなければならない。救済する手段はないのか・・・。守る会は考えた。そして依拠すべき法的根拠を必死に探した。私は国際人権法にその希望を見つけた。守る会は「居住の権利」の実現を日本政府(行政)に求める運動方針を掲げた。「居住の権利」を深めるため日本居住福祉学会と連携した。そして、強制立ち退きに代わる建設的な対案としての「包括的なまちづくりプラン」の作成が住民側に必要とされたのである。

「居住の権利」の研究

・国際人権法の「居住の権利」(社会権規約11条)は、「原則として強制立ち退きは違法」と解釈されている。国際人権条約を批准・発効した国家には、各々の国内で実施する義務が生じ、国内の実施状況を定期的に国連に報告しなければならない。その際、強制立ち退きを受けない権利を、国内裁判所がどのように扱っているかが重要なポイントとなる。

・2000年6月、ウトロ裁判は大阪高裁が敗訴判決。社会権規約上の主張についても簡単に棄却されてしまった。予想された結果である。しかし、日本の裁判所が慣習的に行う国際人権法の扱い方の資料(サンプル)としては、これで十分であった。

・司法的救済があり得ないなら、国際人権世論を背景に、政府の責任で行政的な解決を図るしかない、それには具体的な対案が必要とされた。国土交通省住宅局が所管する再開発・住環境整備事業の法制度を調べると、老朽化した不良住宅地の環境改善とコミュニティの維持を目的とした住環境整備事業がある。守る会は2000年のひと夏かけて、ウトロ地区内の全建物を調査し、事業条件に該当するか一つ一つ検討した。ウトロの現状は実施条件を十分に満たすことが確認できた。つまり、行政にその意思があれば、住環境整備事業は十分可能であるとの結論を得たのである。私は国連に報告するレポートの中に調査結果を書き加えた。

20000812 まちづくり住民集会アバンティホールで

・住民と支援者はワークショップを数回行い、住民に内容を周知した。2000年10月、ウトロ町内会と守る会は京都府、宇治市に事業のための調査実施を要望した。しかし、行政側からは無視された。2000年11月、最高裁は上告棄却決定を下した。

現地見学

20060528 兵庫県伊丹市中村地区見学

・地方行政が行う再開発事業については日本各地に数多くの実績がある。在日朝鮮人集落で住環境整備事業が実施された例としては、京都市南区東九条松ノ木町40番地や兵庫県伊丹市中村地区などがある。両地域では公営住宅を建設、その用地確保は行政側が土地を用意し、不良住宅については住民から買収し、除却工事が行われた。営業補償(例えばリサイクル業)や移転補償費(引っ越し代)なども含め国土交通省の事業メニュー通り、あるいはそれ以上であった。

20060806 京都市南区、同構造の高齢者療養施設見学

20060806 京都市南区、同構造市営住宅見学

・ウトロ住民は数回、これらの各地を見学した。新しい公営住宅をウトロの中に造るとなると、建設用地を地域内に確保するためには、既存住宅の一部は撤去されなくてはならない。これは悩ましい問題だった。しかも、ウトロ住民には資力がない。そこで、再開発する場合、住民の居住を一区画にまとめて、余った土地(三分の二)を平穏に明け渡すことで、居住部分の土地を確保するという、原告側の利益を考慮しながらの綱渡りの計画になった。ただし、行政が住環境改善事業に組み込めば、開発計画は格段に有利になる。原告側の選択の幅を広げて、「強制執行」を断念させるねらいが含まれていた。

宇治市でウトロ地区の改善事業を確定する過程

・もともと宇治市はウトロ問題の解決に極めて消極的だった。ウトロ土地問題は民間と民間の紛争であり、戦時中の国家に起因する歴史問題であるから、宇治市に直接的責任はないという姿勢だった。裁判の結果、判決が執行されれば住民はいなくなり問題は自ずと解決するとしていた。京都府も同様で、国と宇治市の中間に位置するので、当事者性は薄いと考えた。しかし、2001年8月に、スイスのジュネーブで行われた国連社会権規約委員会による日本政府報告書審査に対する最終見解(総括所見)の中に、「ウトロ」という具体的な地名が書き込まれ、日本国家の責任で住民救済を行うように勧告が出された。画期的な成果である。さらに、2005年7月には、国連人権委員会の人種主義・人種差別問題を担当する特別報告者ドウ・ドウ・ディエン氏が日本を公式訪問し、ウトロ地区を実地調査した。この時、解放前に朝鮮半島で生まれた在日一世の高齢者たちは、強制立ち退きによって、住みなれた住居を奪われることの恐怖を切々と訴えた。彼はウトロについて「戦争目的の建設に従事し、戦争が終わればまるで道具のように捨て置かれた。まさに差別の足跡。経済大国の日本で貧困や社会から排除された状態を見たのはショッキングだった。一方で感じたのはコミュニティの連帯感の強さである」とその印象を語った。2006年1月、国連人権理事会に提出された報告書には、「日本政府はウトロ住民がこの土地に住み続けられる権利を認めるための適切な措置をとるべきである」とあった。

2005 UNディディ円訪問 -> 2005 UN ドウドウ・ディエン 訪問

2005 UNディディ円訪問 -> 2005 UN ドウドウ・ディエン 訪問

・他方、守る会の田川明子と私は、別の戦後補償裁判(京都地裁)の支援活動をしていた。「朝鮮人日本軍兵士シベリア抑留、軍人恩給訴訟」である。自民党の野中広務官房長官(当時)と接触する機会があり、田川は「ウトロについても力を貸してほしい」と頼んだ。野中は自民党、冬柴鐵三は公明党だが、ともに当時、与党の戦後補償を進める国会議員のメンバ-だった。野中の紹介で冬柴国土交通大臣と金教一町内会長、田川と私たちは地元事務所で会った。2007年8月の暑い日だった。彼は「ウトロは兵庫県伊丹市の住環境改善事業と同じでよいか」と発言した。私たちの答えは「勿論です」。「住民が土地を買い取るのは難しいだろうから、歴史的なこともあるし、(土地買収は)京都府行政に任せて、公営住宅の建設をしよう。山田啓二京都府知事に電話します。京都府、宇治市に対しても、こういう方向でみなさん方は考えたらいいでしょう。今日は冬柴に会ったと、(行政関係者に)伝えてください」と答えた。2007年11月、京都府知事と宇治市長が東京の国土交通大臣に呼び出された。二人はそろって、ウトロ問題を地方自治体として「しっかり取り組みます」と大臣の前で決意表明し、その映像はTVニュースで報道された。

 

・こうして、政府レベルでの救済が決まり、国土交通省が一歩乗り出すと京都府、宇治市は動かざるを得なくなった。当初、最も積極的だったのは国土交通省住環境整備室である。利用できる制度はすべて利用したらよいという姿勢だった。しかし、京都府は消極的で、「不法占拠対策」や「災害対策」と同様に、困窮した住民には住宅だけ提供すれば十分という姿勢だった。宇治市もこれに追随した。

20101212 住民アンケート調査

ウトロ地区の改善事業が実施された

・2007年9月、韓国の支援団体が原告不動産会社とウトロの土地東側半分の売買合意をした。しかし、その後は原告側の債務整理の関係で交渉は停滞した。2011年2月、ウトロ財団(韓国政府)が土地買収を完了した。これを待って日本行政は、「住身側(韓国側)が用意した土地の上に、日本行政が住宅を建てる」という『上下分離、ただ乗り論』を持ち出し事業実施の前提条件とした。そればかりか、事業主体(行政)は事業用地の買収を一切行わない(ただし、基幹道路部分は原告不動産から土地を買う)。住民の所有する家屋(不良住宅)は買収しない。住民に対する補償(良住宅移転補償、営業補償など)も一切行わない。家屋の撤去工事は行政が行い、その同意書を町内会ですべて集めさせる。こうした住民にとって過酷な内容が、行政と町内会の交渉での最終合意とされた。

 

・ウトロ財団(韓国政府)の土地はすべて「無償使用」とされ、その上に宇治市が管理する公営住宅と道路が建設された。行政交渉は当初から町内会だけを交渉相手とし、行政の一人勝ちとなった。住民の住宅(私有財産)はすべて無償で解体された。

・守る会が協議に参加できたのは部屋の間取りの問題だけ。しかも行政が用意した基本設計を変更すれば、その分の費用が家賃に跳ね返ると説明され、住民の希望は最小限のものとなった。2018年1月住宅は完成し、居住の場所は確保された。

20180107 入居アパート説明1

・いま、「まちづくり」案の経過を振り返ると、このように住民がその時々の置かれた周辺の力関係によって大きく変転した。最初に住民が書いた素朴な「未来の絵」はウトロの敷地全部を使う大きい絵だった。住民自身や住民側のコンサルCASEが図面化した。しかし、最終的に行政によってすべて書き換えられ、住宅だけの小さな計画となった。そう、韓国側からの住宅用地の提供は事業を促進する効果があった反面、事業規模が住宅だけに限定される結果となった。その根本原因は行政交渉における行政と住民の力量の相違である。それは在日の歴史の中で形成された格差(差別の結果)という以外にないだろう。

20070413 ウトロ地区造成計画図1

・私たちは韓国政府、韓国の支援者に感謝したい。ただ、ウトロの新しい住宅は宇治市市営住宅として管理され、事業終了後は一般公募される。入居者のうち、韓国籍や韓国にルーツのある者の比率は今後どんどん減っていくだろう。ならば、ハードの住宅建設は日本行政に任せてソフト部分で高齢者対応は勿論、福祉や医療サービスと結合し、具体的にはグループホームやデイケアをセットにするなど最後のセーフティーネットとして機能させるプランも考えられる。さらに集団として、例えば「チャンゴが聞こえるまち」に住み続けること、密度の高い地域コミュニティを維持することが大切である。国際人権法には文化的独自性を尊重し、出身国との文化的繋がりを維持する権利も含まれている。

・国際人権条約を批准・発効した国家には、国内で条約の内容を実施する義務が生じる。ウトロは国際世論に押されて日本国家がやっと救済に動いたケースであるが、正当事由がない意図的な権利後退措置や、(民族)差別があってはならないことは国際人権規範に照らして、言うまでもない。

 

・在日の差別状況は日本社会の内面に深刻な後遺症を残している。しかし、継続した運動や当事者の取り組みによって社会的差別は克服され、やがて歴史的正義が実現するだろう。国際人権法の規範がウトロ救済の役に立ったように、歴史はひずみを残しながらもゆっくりと深く、前に進んでいる。                                                                                             

(敬称略)

執筆者 | 斎藤正樹
ウトロを守る会副代表、日本居住福祉学会理事、在日朝鮮人運動史研究会・朝鮮近現代史研究会会員